『愛のコリーダ』@ Le Brady

大島渚愛のコリーダ』(1976年)を見た。

76年の制作だから、すでに40年前の作品ということになる。大島渚監督、キャストも全員が日本の俳優で占められているが、れっきとしたフランスと日本の合作映画だ。フランス語タイトルの「L'empire des sens」は「官能の帝国」を意味していて、これはもちろんロラン・バルトの「L'empire des signes」、つまり「記号の国」(「表徴の帝国」という訳語もある)への目配せがなされたタイトルである。よく言われることだが、ここでの「L'empire」をすぐさま「帝国」と訳すのは、この語の持つ機微を捉え損ねている。例えば「sous l'empire de...」という熟語に「〜の支配下に、の影響を受けて」という意味があるように、この映画のタイトルは「官能の帝国」を意味すると同時に、「官能の支配」という二番目の意味も含みうるからである。

阿部定事件にモデルを求めたこの映画は、全編にわたって吉蔵(藤竜也)と定(松田暎子)のセックスシーンで埋め尽くされている。その映像は非常にあからさまであって、男性器が女性器に挿入される光景がまったく躊躇なしに映し出される程だ。日本公開ヴァージョンであれば局部に修正が入るのだが、フランス公開ヴァージョンであれば修正は入らない。映画館の画面で男女の局部が大写しになった映像を1時間半近くぶっ続けで見るのはやや辛かった(実際、私が見た回では上映の途中で席を立つ観客もいた)。

物語の筋書きはあってないようなものだから、ここでは詳しく立ち入らない。私が感じたことは、映画のタイトルである官能(sens)と映像(image)との関係である。つまり、この映画は「L'empire des sens 」と題された映画であり、文字通りセックスという官能の問題を扱っているのだが、実際に鑑賞者の眼の前に提示されるのは、官能からあまりにも遠く離れた、生々しく暴力的な映像の洪水なのである。感覚としての官能を映画で取り扱おうと試みながらも、実際はセックスシーンと性器のクロースアップという、ともすると可笑しくすらある文字通りの映像が縦横に陳列される。果たしてsensはimageに変換可能なのか。「官能の帝国/支配」と題されたこの映画は、実態として「映像の帝国/支配」に他ならないのではないか。

 

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映画館は10区のStrasbourg-Saint-DenisにあるLe Brady。1956年開館で、トリュフォーも通った。2スクリーン。今回の上映は小さい方のスクリーンで行われた。座席は30席ほどで狭かったが、座席の各列に2人用のベンチシートが設けられているのが興味深かった。